“【連載第一回】京大新聞の百年 | 京都大学新聞社/Kyoto University Press”
【連載第一回】京大新聞の百年 | 京都大学新聞社/Kyoto University Press
Source京大新聞の卒業生が「京大新聞史編集委員会」を組織し、関係各氏から原稿を集めて出版(草思社/1990年4月/1600円)
京大新聞は2025年4月に創刊100周年を迎える。節目に向け、その歴史を振り返る特集を今号から十数回にわたり連載する。時系列で振り返る「通史」は、1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から編集体制や紙面内容の変遷を書きとめ、コラムで視点を補う。各時代にどういう背景のもと何を大切にしてきたのかを見出すことで、今後の紙面づくりに活かすとともに、報道、出版、文芸、教育、学生運動など各方面の歴史を考える際の一助となることを期待する。連載初回は、1925年の創刊から29年ごろまでを取り上げる。(編集部)
通史:創刊〜新聞部事件(1925〜1929)
全国で7番目の大学新聞
京都帝国大学新聞は1925年4月に創刊された。大学創設から28年後のことである。
日本の大学新聞は、大正の半ばから相次いで誕生した。1917年5月の慶應義塾大学『三田新聞』を皮切りに、東京帝国大、日本大、早稲田大、明治大、大谷大で次々と創刊され、京都帝国大は7番目にあたる。
創刊のきっかけは、京大と東大のスポーツ交流をめぐる報道だった。両大学の間では、柔道、剣道、陸上競技など学友会の各運動部が毎年交互に訪問し、一週間ほど対抗戦を繰り広げる「運動週間」が恒例となっていた。東大を京都に迎える年だった1924年、東大の帝国大学新聞が運動週間中に部員を派遣して京都の印刷所から新聞を発行するといううわさが伝わった。前年の東京での運動週間で帝国大学新聞の活躍を目の当たりにしていた学友会の学生委員はこの話に驚き、「京大にも新聞を」と学生監(現在の学生担当理事にあたる)の花田大五郎に働きかけた。朝日新聞や読売新聞で勤務経験のあった花田は、各部の要請に応じ、さっそく新聞を発行することにした。当時、寄宿舎にいる各学部学生で構成されていた学友会雑誌部の部員を編集委員とした。こうして、秋の運動週間中、京都日日新聞(現京都新聞)の工場を借りて印刷された4面の新聞が連日発行された。競技の予定や結果、予想や感想を掲載している。東大側は結局、京都での発行を断念したという。
雑誌部から新聞部へ
1924年の学友会の役員会では、運動週間の新聞発行で自信をつけた学生の要望をふまえ、雑誌部の廃止と新聞部の設置を決議した。▽1925年4月から学友会の機関紙を発行する▽新聞に関する責任は学生監がとる▽月2回、年20回程度発行する▽学生や教官には無料配布する、などを決めた。
なお、雑誌部のはじまりは1909年にさかのぼる。この年に開かれた学生茶話会が盛況で、永続的な開催を目指して親睦団体「以文会」が創設された。ここに親和部と雑誌部が置かれ、『以文会誌』(のちの『学友会誌』)を創刊した。毎年12月に発行し、寄宿舎や各分科大学に関する記事を通して「学生生活の概況を報告」した。この以文会が、1898年に結成された運動会と1913年に連合し、学友会となった。学生代表だけでなく各学部2人の教授も役員として参加したほか、会長として総長、幹事として学生監が指導にあたった。
また、花田の読売新聞時代の後輩の入山雄一が事務担当者として東京から招かれた。入山は「新聞を一生の仕事として選んだが、まさか大学新聞とは夢にも思っていなかった」と回想している。その後、約半世紀にわたり、入山は京大新聞とともに歩むことになる。
学友会の旧雑誌部員と新たに選ばれた学生が編集部を構成し、1925年4月、創刊に至った。部長には法学部長の佐々木惣一が就任し、入山雄一が発行人となった。当時、新聞紙法などの制約があり、一般紙のたいていの発行人にはそれらの法令違反の前科があった。そのリスクを学生監や学生が負うわけにはいかないという判断から、入山に白羽の矢が立った。
「不偏不党」「温かき連絡保つ」
創刊号の1面には、佐々木部長の《京都帝国大学新聞の使命》をトップに掲げ、末川博・法学部教授の《学術と新聞》と題する論文や、完成したばかりの本部時計台の写真を載せている。
佐々木の説く大学新聞の使命とは、「京都帝国大学の内外において大学の関係者間に温かき連絡を保つの機関なる」ことで、「第一に、新聞は全く不偏不党の立場に立つことを要する」と述べている。
2面にはスポーツや学友会からの告知、3・4面には3月の卒業生と4月の新入生の氏名一覧、5・6面には学内の諸教官のエッセーや雑報を掲げている。大正デモクラシーという言葉に象徴される雰囲気のなかで産声をあげた新聞とあって、大学生活の明るい側面を活写した記事が目立った。東大の帝国大学新聞と違って学生編集員の意見を述べる欄がなく、政治的な色彩の話題を取り上げない紙面だった。原稿は、学外へ依頼せず京大の学生・教官から得ていたという。
初年度は月2回発行で、年間予算は約1万円だった(参考:当時の公務員初任給は約70円)。予算のうち3割弱は学友会から補助を得ていた。翌年から月3回発行に増やしたが、大学生活は週単位で進むということで、1929年からは週刊を実現する。ときに印刷所の都合や内部事情で月2回に逆戻りすることもあった。
時代の転換点で誕生
第一次大戦後の日本社会は、1920年の戦後恐慌によって不況の慢性化に直面した。労働運動が深刻化し、日本共産党や日本農民組合が結成されたほか、23年9月1日には関東大震災が発生した。こうした情勢で第二次護憲運動が起こり、25年3月、25歳以上の男子に選挙権を与える衆議院議員普通選挙法が成立した。同時に、のちに基本的人権を脅かすことになる治安維持法も成立した。京都帝国大学新聞は、大正デモクラシー運動の結実とその反動の下地形成という時代の転換期に誕生したのである。
学内に目を向けると、自由な研究を志向する学風のもと、法学部には刑法の滝川幸辰、立憲主義学派の憲法学者として知られた佐々木惣一、文学部には京都学派の西田幾多郎や和辻哲郎、経済学部にはマルクス主義経済学者の河上肇らがいた。こうしたリベラルで思索的とされた京大の学問の系譜は、国家によって次第に規制されていく。その一例が次にみる「京都学連事件」であり、紙面にも時代の暗部を感じさせる記事が増えはじめる。
京都学連事件で報道規制も
軍部の台頭やロシア革命などをみた学生らにより、全国の大学・高専で社会科学研究会や社会主義研究会が生まれ、そのたびに学校当局から解散命令が出された。京大では1923年に社会科学研究会(京大社研)がつくられ、全国の社研の中心的存在になった。「プロレタリア社会科学の研究ならびに普及」などを掲げて活動し、25年7月に京大で全国学生社会科学研究連合会大会を開いた。この年の12月には、軍事教育反対運動のビラ掲示を機に警察が京大および全国の大学で計33人を検挙した(十二月事件)。翌年1月には同様に37人が検挙された(一月事件)。この一連の「京都学連事件」は、施行されたばかりの治安維持法がはじめて適用された事件となった。
事件に際して京都帝国大学新聞は、特高が監視していた7月の連合会大会の報道を大学当局から抑えられた。一方、十二月事件では12月15日号で経過を報じた。ニュース面のトップに、《わけのわからぬ本学学生不当検束事件》という見出しを掲げ、紙面の3分の1をさいている。創刊以来、政治的事件をほとんど扱わず、学生編集員の意見を紹介する欄もなかったが、この記事では終わりに〈大学の使命は〉〈何の為の検束〉という小見出しをつけて「主張」を掲載。「約四千を数える学生の中に偶々その百分の一にも足らぬ学生がかなり進んだ社会科学の研究をしているからとて別に驚くにも足らぬことと思ふ」と記し、大学の自治や研究の自由の侵害を指摘し抗議している。
翌年の一月事件については、事件後8か月が経過した1926年9月21日号で本格的に扱っている。報道が差し止められていたためだが、これは一般の新聞も同様であった。
この年の3月には岡田良平文相が各大学に「左傾思想研究禁止」の内訓を出し、そのなかで学生新聞を事前検閲するよう求めた。それまでも諸法令の制約が大学新聞に課されており、京都帝国大学新聞では新聞部長が紙面をチェックしていた。一方、京都学連事件に際しては、紙面を通して思想の自由を訴えている。たとえば、法学部や経済学部の教授から、家宅捜索での寄宿舎立ち入りなどをめぐって「手続きは不法」、「教育や研究の自由を脅かす」との抗議の声が上がっており、これらの声明を掲載した。10月11日号では佐々木新聞部長みずから捜査の違法性を論じた講演の内容を載せている。
河上肇 教壇を追われる
大学当局は京都学連事件後、社研の指導教授に経済学部の河上肇をあてた。2年後の1928年、共産党などの関係者千数百名が治安維持法違反の容疑で検挙された(三・一五事件)。こうしたなか、文部省から「左翼教授追放」の要求が出て、荒木寅三郎・京大総長は、経済学部教授会の同意を得たとして同年4月、河上に辞職勧告を出した。理由は、社研から治安を乱す者が出ており、その責任を問うというものであった。河上は「納得できない」としながらも、教授会が同意している以上、大学の自治を守るためにその意向に従うとして辞職した。
4月21日号では、1面のほとんどをこのニュースにあて、《大学を辞するに臨みて》という河上の長文の原稿を載せている。辞任に反対する経済学部の学生による集会がたびたび中止を命じられたことや、社会科学研究会が解散させられたニュースが並ぶほか、〈河上博士は学者的信念に厚い人である〉という旨の佐々木の手記も載っている。
河上の追放をめぐり佐々木は、荒木総長が経済学部にはからず辞職勧告しようとしたと聞きつけて、教授会の意向を問うよう申し入れるなど精力的に動いた。その佐々木が新聞部長を辞任したことに端を発し、創刊以来の事件が起こる。
新聞部長の辞任
1926年11月ごろから、学生の自治権拡大を図る学友会の改革運動が断続的に起こるなか、新聞部は学友会補助金の増額を訴えたものの成功しなかった。しかし、広告収入の増加をあてにして、1929年4月15日号から月3回発行を週刊へ切り替えた。同年4月29日号で創刊百号を迎えた。
当時の紙面は通常が4頁、ときに6頁となり、編集部の意見を記す欄もあった。学内外のできごとを短く批評する《風車》、ゴシップを紹介するコラム《茶のけむり》、学生らに論じさせる《自由論談》、投書欄の《反響》など、毎号活気にみちていた。
こうした意気盛んな体制は、佐々木部長の退陣によって一挙に暗転する。辞任の理由は定かではない。退任後の11月の学友会役員会で、学生が「学校の圧力のために辞職したといわれる」と発言したところ、新城総長はこれを否定した。一方、以前から「思想問題に関する記事において学内外に兎角の批判が起こり、原稿検閲の煩雑から」辞意を表明していたという。
全国の学生新聞も厳しい冬の時代に入った。1929年3月5日号では、同志社大学で理事会から警戒されていた学生新聞の団体が「単なる御用新聞は使命ではない」と抗議の解散をしたことを伝えている。「先に早大新聞を失ひ、北大また発行停止の運命にあり、今更に同大新聞を失う、学生よ、諸君は何処に行かんとする」と、悲愴な叫びを記している。
部員の大量首切り
佐々木の辞任後、後任のなり手がいなかった。新聞部長をすると文部省のブラックリストに載るといううわさもあったという。さしあたり大学当局は、学友会事務幹事だった大野熊雄を9月14日付で部長事務取扱いとした。大野は就任早々、厳しい措置をとった。▽発行回数を週刊から月2回に減らす▽部員が多すぎるため、上級生の委員7人(※)を残して下級生の部員21人は全員やめさせる、という内容であった。大野は委員を集めてこの案を示し、7人のうち出席した4人の賛成が得られたとして、10月から実行に移した。
※入部後1年で部員から委員に昇格するしくみ
首を切られた部員たちは抗議し、講演部など他の部員もこれを応援して、学内にビラをまいたり一般の各新聞社へ知らせたりした。しかし、11月1日の学友会臨時役員会で大野の説明が了承され、学生たちの抗議も次第に下火になった。大野は、「新聞部は部長を失って休刊されんとしたので引き受けた」、「彼らの決議は全学生の意志とは思われない」と述べ、抗議する学生を批判した。
「新聞部事件」以降の紙面は、学生の短評《風車》や《自由論壇》、投書欄まで影をひそめて、すっかり生彩を失った。予定どおり発行されたのは8月12日号までで、部長辞任を扱った9月16日号は2頁のみとなっている。《当分、本紙は月2回発行》との経過説明をはじめて掲載した10月5日号には、大野の《京大新聞の歴史と使命》と題する文章が載っている。それによると、▽創刊の際に佐々木新聞部長が述べているように大学新聞は不偏不党でなければならず、また公の機関として取り扱われねばならない▽合法的手段で発行する以上、新聞紙法の取り締りを受けるのは当然▽学生が編集する以上、学校が監督するのは当然で、学生が勝手にやっていいものではない、とある。この3点を強調したのは、それまでの紙面が新聞紙法にふれるおそれがあり、大学の意向に反しているという考えからであろう。戦前の学生新聞が、文部省や軍部らの意向をふまえて大学から言論統制されていたことを示すさきがけ的な例が、この新聞部事件である。
当時の紙面をみると、新聞部内部に学年や思想の対立があったことがうかがえる。新聞部事件前のコラムでは、「内輪話」と前置きしつつ、部内の状況を「右傾派は新聞は赤化したと言い、左傾派は如実の反映でないと言う」と記している。
事件で当局側に立った上級生の委員は、▽大野氏からこのままでは部長のなり手が見つからないと言われ、発行を減らすことも含めて受け入れた▽広告収入が不良で週刊は苦しい▽下級生の誰をやめさせるか基準に困るため、全員やめてもらっていい、などと語っている。後輩部員は翻意を求めて委員のもとへ押しかけたという。
新聞部にとって苦々しいこの事件を経て、1929年11月21日付で歴史学者の西田直二郎・文学部教授が部長に就任した。
拾い読み:「運動記事がのさばりすぎ」との声も
創刊〜1929年末までの5年間の115号を見返し、記述を抜粋して紙面の特徴や運営状況、学内の様子を概観する。紙面での表記を保持しつつ、仮名づかいなどを適宜改めた。
1925年
【日程・料金】
1・15日発行/1部5銭・年1円
【運営】
▼「学友会が近年著しく発展する」なかで「『学友会誌』が物足りなく思われ」、新聞の創刊は「必然だった」▼「大学教育を受けたる者の社会的任務」をテーマに懸賞論文を募集し、22本集まった▼長期休暇には定期購読者の帰省先に新聞を郵送した▼新聞部室を理学部事務室北隣に移転した
【紙面内容】
▼創刊号のトップは佐々木部長の《京都帝国新聞の使命》。「不偏不党」を宣言▼スポーツ各部の結果を写真つきで、ときには複数面にわたり掲載▼学内の教員の寄稿が多い▼身体検査の告知や教員の辞令、演奏会の告知など、創刊号で掲げた「連絡を保つ機関」としての機能がうかがえる▼東大との運動週間は臨時特集号で5頁にわたり詳報。一方、別の号では当該行事に「若干の疑問を抱く」者の私見を掲載。文化部など参加者の拡張を提案した▼震災義援金募集の告知を掲載。被災地域の学校からの反響も記事化▼学友会各部の紹介・近況報告や短歌・俳句、旅行部の紀行、高校だよりなど
【記事拾い読み】
▼本学学生不当検束事件:同志社の学生が「極めて不穏な印刷物」(スターリンの書籍の一節を含む資料)を所持していたとして、警察が家宅捜索。花田学生監は連絡なしで寄宿舎へ立ち入ったとして抗議▼希望者に限り軍事教練実施:学生監、他大学の実施状況を見て「教練の実施を急いだ」▼附属病院、診察料徴収開始▼農学部で栽培したトマトとナス出荷▼京大社会学科研究会:その精神と事業▼ドイツの大学事情
1926年
【日程・料金】
月2回→月3回へ/1部5銭・年1円
【運営】
▼4月から旬刊(月3回)▼部員募集:1回生から若干名、編集その他を「手伝っていただく」▼「本学関係者限定」で投書や「学内文芸に関する読み物」を募る▼運動週間のみ新聞配布場所を追加:競技場入口、表門裏門、新聞部室(普段は所属学部事務室で配布)▼コラムによると運動週間中の新聞部員は「外勤と編集」に分かれ、編集担当は「6日間殺風景な部屋に座りっきりだった」
【紙面内容】
▼内務省から京大への映画筋書の募集を掲載。「学内一般に周知せしめるやう通牒があった」と記しており、広報誌の役割を期待されていたことがうかがえる▼「明後日は宣誓式」といった記述や、11日号に15日締切の情報などがあり、発行後すぐに頒布していたとみられる▼4頁強で学友会主催の競技大会を詳報▼教授の寄稿(海外大学の様子や教育論、就職状況、学生への要望など)▼演劇や書籍、映画に関する雑感など
【記事拾い読み】
▼学友会予算:寄附や会費で収入は約3万円。中央部が約1万円、新聞部補助が2700円、他の運動部支出がそれぞれ200円~2千円程度▼学友会改善運動本格化▼学友会代議員選挙:新聞部より4名が当選▼東西十大学に跨る社会学科研究会事件終結す:2面にわたり報じる▼滝川幸辰:学生事件の感想▼帝大新聞国際版:東大新聞部が「英語国の学界に名乗りを揚げる機を得た」▼軍隊通信:入隊した京大生の手記▼農学部がニワトリを飼いはじめた▼学内郵便物に所属を書くよう呼びかけ▼武者小路実篤の文芸講演会▼森戸辰男講演▼教授約40名の夏の過ごし方一覧▼東西両帝国大美術製作品展覧会▼「感ずるところあり学友会新聞を脱退する」3名の氏名▼投書「新聞を見て甚だ不愉快」
1927年
【日程・料金】
月3回/1部5銭・年1円
【運営】
▼部員募集:なるべく1回生より十余名▼原稿応募:文芸、演劇、映画、音楽、美術、新歓批評/学生以外も対象
【紙面内容】
▼「対東大戦グラフィック」1頁ぎっしりスポーツ写真▼卒業生消息欄を新設:数名の名前・居住地・職業▼教授寄稿(昆虫の習性、法律改革など)文学部の卒論題目▼教官の引越先や電話番号▼学校通信(東大・龍大・一高など)
【記事拾い読み】
▼東大側の都合で運動週間ついに廃止▼「学友会廃止論」農学部教授:日本に於ける学友会はどれも官製。学友会は時代錯誤▼学友会への花田の私見:会費を納めざる「会員」が存在▼附属病院火事▼学友会会費保留運動▼学友会規則に関する調査委員会成る▼新聞部部員の卒業コラム▼従来の学生監室を学生課と改修す▼学生が普選に立候補▼法学部教授が京都市長に▼社会科学事件5月30日判決▼社会科学研究会、臨時総会▼図書館の利用者:一日の平均閲覧者95人▼学生の最高年齢は文学部の56歳▼日本移民の寄生虫調査で藤浪博士ブラジルへ▼理学部新事業:天文台花山移転、物理学教室の新築、阿蘇の火山研究所▼理学部一部移転▼工学部規程変更▼木材試験室成る▼運動場拡張▼馬術部に新馬来る▼オリンピック大会に於ける本学諸選手の活躍▼スポーツ今昔物語▼年越スキー旅行紀▼京大劇研究会生る▼投書:偽大学生徘徊す▼工学部生の満州見学▼痔を治すの記:入湯、灸、炭酸水、無花果の木を煮して飲む▼坂口博士、浜口雄幸から牛肉をおごられる▼最近の画界における問題
1928年
【日程・料金】
月3回/1部5銭・年1円
【運営】
▼部員募集:1、2年生から若干名の部員を募る▼新採用法で部員の選考:四十余名の応募者があり、選考会が開かれた。佐々木部長は①選考会の模様の記事②入部志望の動機③入部後専心働きうるか④他の部との関係があるかの4点を書かせて現委員と選考した▼会計係より「振り込みのない方には送付を停止」▼創立記念の祝賀会で号外発行▼「全学の新聞であり、大学生活の如実なる鏡であらねばならぬ」として、紙面への「忌憚なき赤裸々の批判、感想、希望」を募り、15件集まった:週刊化せよ/論文が少ない/運動記事がのさばりすぎる/社会の新聞に模倣追従する必要はない/社説欄がほしい/学生生活の内面的思索的方面の表現がなさすぎる/レポーター以上のものであってほしい/学友の創作を連載せよ/頁を増やせ/意気溌溂たらしめよ/主義主張の議場たらしめよ/不平も不満もたまには討論も載せたらいいだろう/論評がほしい/東大に比するもあまりに貧弱/生活にもっと接近したものにしたい/現文壇の新思想を一つも反映していない▼第二回論文募集:テーマは「大学生の見たる思想困難」/審査員は滝川幸辰教授ら
【紙面内容】
▼教授寄稿(議会政治、動物の帰家本能、フランスの芝居など)▼7頁にわたりスポーツ詳報▼詩歌、俳句、短歌、劇評、映画評、書評▼試験日程▼文学部卒論題目▼卒業生・新入生名簿
【記事拾い読み】
▼工学部長「もう少し打ち解けた調子のいい全学の集会が欲しい」▼学友会、学術部新設と調査委員会再設は否決▼突如学友会解散説伝わる:有志驚いて請願書を提出▼学生数5千を超ゆ▼初夏の総長室:総長がフランス政府から勲章を受けた▼六帝大学生監会議:思想取締で賑わう▼「秩父宮殿下、本学へ御成り」▼総長から天皇への挨拶文▼兵役願期日▼河上肇辞職▼西田幾多郎退職▼ヘーゲルとマルクスに関する講演▼欧米の動物学者、続々見学に▼市電大学線開通▼昨春卒業生の就職しらべ▼世知辛くなった大学生活▼笠ヶ峰にヒュッテ建設▼盛んになりし全医学部庭球大会▼柔道旅行私記▼読書事情:下火になった社会科学もの、雑誌では『改造』や『経済往来』▼投書:大学の歌が欲しい
1929年
【日程・料金】
月3回→週刊へ/1部5銭・年1円→1円50銭へ
【運営】
▼毎月1の日から5の日発行に変更、さらに週刊へ移行▼新刊批評、映画と演劇評、短歌、俳句を募集▼募集論文は26本集まった→4名に賞、講評「なんとなくものたりなかった」▼百号記念講演会を新装した法経第一教室で実施▼新聞部見学旅行で大阪毎日新聞社へ
【紙面内容】
▼学園消息(同大・東大など)▼教授寄稿(高等試験令、中国情勢、イギリス選挙、宇宙物理など)▼反響(投書)▼コラム(風車・茶の煙)▼自由論談▼卒業生消息▼映画・劇評▼今週の催し▼スポーツ記事が減少
【記事拾い読み】
▼法経第一教室に拡声器設置:教官の声が届かないため「我が国最初の試み」▼文部省、従来の学生課を廃し思想取締を行う学生部新設へ:京大の谷内学生主事談「ちつとも知らぬ」▼試験の最中に試験廃止運動起る▼激烈なる就職戦▼企業の就職担当者のコメント一覧▼台湾遠征記▼レーニン主義の理論と実践▼アメリカの大学のジャーナリズム研究の概略▼ワシントン大学のマーティン博士来学▼入学難は医工学部、法経は今年も無試験か▼創立記念の園遊会での排酒めぐり教授が署名運動▼不法検束について:瀧川幸辰▼マルクス主義流行の鎖国性:慶応の教授が寄稿▼ドイツの賠償金で購入したマイヤー文庫来る▼図書館で調査:館外貸出総冊数は610▼名野球部長引退▼開講日近き動植物学新講座▼天文台完成▼京都学士会館落成式▼学友会臨時役員会:新聞部事件が中心▼佐々木博士、新聞部長を離任「新聞多端の折から哀惜が甚だしい。これからは研究に全力を傾注」▼投書:「大学新聞が良くなった」としつつ、「全然知らない人の書いたような」記事もあると苦言/書籍の広告を増やすよう要求▼理事会の圧迫で同志社新聞解散す→別の新聞が出されるようになったとの続報も▼大阪時事新報編集局長寄稿:三田新聞創刊の頃▼大阪朝日新聞記者寄稿:新聞の天職と意義▼三・一五事件で入獄した学生の手記▼「本学は420万円の計上予算と85万円の臨時予算を得」た▼世は緊縮時代:本学予算にも24万円の大ナタ▼緊縮予算が海外留学に祟るか▼科学研究の奨励費:今年から精神科学にも▼学内売品値下げ要求の同盟生る▼値下同盟の成果著々実現す:廉くなる地下食堂▼和進会食堂は何故高いのか▼共済部で炭を配給▼学生利益の徹底に共済部報を頒つ:第一回発行へ忙殺中▼芝蘭会で雑誌発行▼『経済史研究』発刊さる▼文芸雑誌発刊の企て▼民俗学研究会成る▼雑誌「改造」購入禁止に医学部学生らが抗議→禁止撤回▼京大映画研究会成る▼トーキー論序説:アメリカ発の映像・音声が同期した作品が京都でも上映▼映画年間ベストテン▼本学初の女性講師▼文学部卒論:近代作家の評論が多い
コラム① 銀行や一般紙も出稿 創刊当初の広告
創刊当初の広告を見ると、書籍、衣服、酒、薬、飲食店、床屋、タクシーといった雑多な広告がある。印刷製本や木炭などの広告で「京都帝国大学御用達」 という宣伝文句がみられる。
大学周辺の店にとどまらず、《本紙愛読諸賢の御便宜のために各地に於て左記の旅館を選定仕り候》と記して別府や箱根など各地の旅館の名前を並べているほか、鉄道(新区間開通)、銀行、建築、生命保険、百貨店、劇場などの広告もある。
大阪毎日、大阪朝日、大阪時事新報など報道各社も出稿しており、新聞社が実施する懸賞論文の募集広告も載っている。
1637年創業の酒造メーカー・月桂冠、1907年創業の洋菓子店・村上開新堂、1927年の創刊当初の岩波文庫など、現在まで続く名前も数多く見つかるほか、結婚相手の身元調査、尺八教室、制帽、白衣専門店などもある。
表記に着目すると、当初は横書きを右→左の向きで読むものが混在しており、1927年ごろには左→右が多くなっている。
広告掲載費用は、紙面の題字の下に記している。1行で60銭、記事の間に挟む場合は2倍、掲載頁指定は2割増となっている。1面指定が数多く集まったのか、読者が最初に目にする1面をすべて広告で埋めている号が散見される。
創刊からの5年間で、それぞれの広告がやや小さくなったものの、数は各号20〜50個ほどで推移し、にぎわっている。
コラム② 研究から自治組織へ 他大学の創刊事情
「各大学の連中が親しく」
「東洋創始の学生新聞」とされる三田新聞が生まれた慶應義塾は、作文を募集して褒賞を与えるなど、元来、学生への文筆の奨励に努めてきた。1898年には学生有志が運動会の様子を収めた印刷物を販売し、「羽の飛ぶ如く」売れたという。
これらを背景として、1900年から施行された大学部学則に新聞記者を養成する旨が盛り込まれ、1913年には新聞科が設置された。記者志望者を募集し、試験のうえ数名の授業料を免除するなどした。しかし、出身者が新聞界に進まない状況が続き、数年で開講されなくなった。これに代わって1917年に学生自治団体「三田新聞会」が組織された。補助金を与えられて政治科学長の指導のもとで新聞研究に取り組む一方、同年7月から実習の一環として新聞の発行をはじめた。創刊号では、「本塾を中心とする各般の事項」を報じて「趣味と実益」に寄与する旨を宣言している。
学科から出発という点では、全国で3番目となる『日本大学新聞』も似ている。1918年、社会科に自由聴講の新聞学講座を置き、「実地研究に資するべく」新聞の発行をはじめた。慶應から転学してきた三田新聞の元会員もいたという。継続的な機関新聞を求める学生と大学当局との交渉を経て、1921年秋に日本大学新聞会の設置が決まった。大学から2千円を支出し、会長は教授から選ぶこととした。なお、日大新聞の一部の部員は、後に続いた明治大学の新聞発行に際してたびたび指導に出向いたという。
続いて早稲田で学生新聞が発足し、五大学新聞連盟ができるなど、「各大学の連中が親しく」していたという。早稲田の新聞は、東北地方出身の学生を中心とした「啄木を慕ふ会」の会員らが大学当局と複数回にわたって交渉し、創刊にこぎつけた。
ボート対抗レースから
東大の帝国大学新聞は、運動部との関係からはじまる。1919年、早稲田大とボート対抗レースを実施した。これに先立ち全学の応援団が結成され、恒常的な組織設立の気運が高まった。結局この時点では組織されなかったが、その流れで学生による新聞創刊が実現した。
はじめは学外に事務所を構え、関係者から資金を募って発行していたが、卒業生ら5千人に迫る購読者を得るなど実績を積み、1922年に教授や学生を評議員とする東京帝国大学新聞会を設立した。その後、翌年5月にできた全学組織「学友会」が経営するべきとの判断で、新聞会の解散が決定した。1928年には美濃部達吉らを理事とする法人「帝国大学新聞社」が発足した。当時の紙面は、社説や寄稿が多く「新聞というよりは雑誌に近かった」という。
コラム③ 「事件」の底流の回想 創刊当初の編集風景
1929年に筆記テストを経て入部した田中文蔵氏が『アカンベエ!』に寄せたコラムから、創刊当初の編集風景をみる。
◉弁当がタダに
大学本部の地下食堂「あづまや」で新聞部員だと名乗れば、35銭の弁当を無料で食べることができたという。
◉イヤ気がさした?
田中は佐々木部長の辞任について、自由な学問研究を志向する部長と、「無産者新聞の京大版」をつくりたい一部の編集員との間で「基本的相違」があったと指摘。新聞部の会議に出て「積極的に主張討論」する佐々木部長と編集員とで議論がかみあわず、「イヤ気がさしたのではないか」とまとめている。
◉投書に肝を冷やす
1928年11月、治安維持法による規制下で、昭和天皇の即位の礼を「日本支配階級の不条理な乱費」と批判する学生の投書を掲載したところ、法学部の教官から、発行人の入山が不敬罪に問われるおそれがあるとの指摘が出た。新聞紙法の罰則では、不敬罪の場合は体刑を免れえず、入山は肝を冷やしたが、特高に気がつかれなかったのか、何事もなく終わったという。
一方、田中はこの一件が新聞部に対する大学当局の不信感を増大させ、大野による部員首切りなどの措置「新聞部事件」につながったとみている。
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